フィジー人の「仕事よりも大事なもの」
今のお仕事について教えてください。
フィジーの語学学校で校長をしています。日本人の方を受け入れて英語を教えながら、現地のフィジー人との交流を促すのが当校のプログラムの大きな特徴です。 語学留学というと若い方のイメージがあるかもしれませんが、うちでは10代の学生から70代まで、幅広い年代の方がいらっしゃいます。フィジーは過去、アメリカのギャラップ・インターナショナルとWIN(Worldwide Independent Network of Market Research)が共同で行っている「幸福度調査」で、世界1位になったことで知られており、そうした「幸せなライフスタイル」を学びたいという方が多いです。 なので、プログラムではフィジー流の暮らしを通じて、お金や働き方、ライフスタイルを問い直すということにも注力しています。

語学学校「フィジー留学カラーズ」の現地教員たち
フィジーと日本で、大きく異なると感じるのはどんな部分でしょう。
たくさんありますが、働くことやキャリアに関していうと人生における「仕事の優先順位」ですね。 日本の場合、仕事は何よりも優先すべきものといった価値観があると思います。近年はプライベートを重視する考え方も広がっていると思いますが、それでも多くの人が、「仕事だから」というのを、他の事柄に優先する理由として口にすると思います。「勤勉・勤労」が美徳とされていて、生活の中で優先順位が高い。 そこがフィジーでは全く異なります。フィジー人が一番大事にするのは「コミュニティー」と呼ばれるものです。村社会、とも言い換えられるかもしれません。そこでの助け合いが生きるうえで最も重要だと皆が認識しています。 勤労の大きな目的の一つは金銭的な対価を得ることだと思いますが、フィジーではコミュニティーで人とつながっていれば、お金がなくても生活ができるという感覚があります。なにかあったとき、国は助けてくれないけど、周りの人は助けてくれる。だからつながりが生命線、といった感覚です。
「お金がないと幸せになれないの?」
「お金がなくても幸せでいられる」ということでしょうか。
まさにそうです。 以前、私の学校で日本からの学生が「フィジーの人たちはお金がないのに幸せなのはなぜ?」と質問したことがありました。日本の感覚からすればごく自然な質問だと思いますが、フィジー人の先生たちはその質問の意味を不思議がるんです。そして「お金がないと幸せになれない理由は?」と、逆に質問していました。これは、すごく心に残っているエピソードですね。 フィジーと日本では社会の成り立ちが違いますので、同列に語ることはできません。現代の日本においては、当然お金は重要です。でも、お金は不幸を防ぐにはよい道具だけど、それがないとハッピーになれないわけじゃない、という考え方も大事だと思います。お金の多寡が、幸せの量を表しているわけじゃありませんよね。 お金がなくても幸せでいられる人たちを自分の目で実際に見られるのは、フィジーに長年いて一番良かったことだなと思います。

フィジーは世界の中で「幸福度」が高いとされる
資本主義経済がそうだからか、「もっと成長しなければ」「もっと頑張らなくては」という意識は多くの日本人が持っている気がします。
それは一つの美徳だと思うので、否定しません。国の経済成長がもたらす幸福も重要です。しかし、その価値観が唯一絶対の正解ではないと、フィジーで過ごしていると実感します。 以前、学校でアフリカの格言を紹介したんです。「早く行きたければ1人で行け、遠くに行きたければみんなで行け」という言葉です。私としては、「なにかを成し遂げるためには、みんなで協力することが不可欠だ」と伝えたかったのですが、それを聞いていたフィジー人の教師たちから、「なんで遠くに行かなきゃいけないの?」「早く行く必要も、遠くに行く必要もないのでは?」と言われたんです。
「終わりなきカイゼン」の落とし穴
現状で満ち足りている、ということなんでしょうか。
そうですね。フィジー人は「幸せ」を標準装備しているような感覚があります。フィジーでは「不幸でなければ、幸せ」と捉えるので、幸せと思える範囲が大きいように思います。
それと比べると、日本は「カイゼン国家」ですよね。カイゼン(改善)は英語にもなっていますが、なにがダメだったのかを考え、対策を繰り返していく。これは、個人や組織の成長を促すという意味では効果的です。しかし「今の状態には必ず課題があり、よりカイゼンできる」という思考を前提にすると、より良くすることに関して天井がなくなります。「終わりなきカイゼン」です。これは「満ち足りる」という感覚とは対極ですよね。 「成長」や「前進」を是としすぎると、失敗にも寛容になりづらくなる気がします。失敗を「自分のせい」と考えると、苦しいですよね。もっとうまく行う方法はあったのかもしれませんが、その方法をとらなかった自分を責めるようになってしまうと、それはハッピーなのかな、と。 カイゼン文化があるからこそ、日本の国力は高いし、よいものも生まれます。でも個人単位で見れば、「今の自分はここまででいい」という上限を設定して、ときどきクールダウンすることも必要だと思います。人生は長期戦で、ずっと登り続けることなんてできませんよ。
逆に、フィジー流の考え方で困ることはありますか。
今の話と裏返しで、日本と比べるとフィジーでは、もうなにも改善しないのではと思うことがあります(笑)。 先ほど話しましたが、人生における「仕事」の優先順位が低いので、フィジー人はちょっと嫌なことがあると、年齢なども関係なくすぐに辞めます。自分の村に戻って、コミュニティーの仕事を手伝っていれば生活はできるので、失業を恐れていないという感覚です。縁故採用社会ではありますが、現金収入のある仕事に就ける人は多くはないです。 彼らは辞めても必ずなんとかなると思っているし、そもそも「なんとかなる」の意味が「同じような収入や生活水準を保つ」ということではなく、「コミュニティーの中でハッピーに暮らす」といった意味です。日本的な感覚からすれば「なんともならなくてもいい」とさえ思っているように感じます。そう思えたら、無敵ですよね。

フィジー流の幸福を肌で感じているという永崎さん
「流れるプール」から出よ
日本では、同じ会社に長く勤めることをよしとする価値観がまだまだ強いと言われます。フィジーの方の退職の仕方などから感じることはありますか。
退職の仕方や、フィジーという国に限らない話かもしれませんが、たまに立ち止まったり、スピードを緩めたりすることって大事だなと思います。 人生を流れるプールに例えると、泳がなくても進んでいくのは楽だし楽しさもありますが、流されていった先が、本当は自分の行きたくない所かもしれないですよね。そうでなくても、同じコースをぐるぐる回り続けることに疑問を感じるかもしれません。流れていると、周囲の景色になかなか意識が向きませんが、そうしたときに一度プールから上がって、周りを見渡してみることが必要です。 外の世界は広くて、いろんな価値観や環境があります。「そうしなければいけない」と思っていることでも、「そんなことない」と考える人が必ずいますよ。速い激流に身を浸していると息継ぎで精いっぱいで外の様子が分かりませんから、一度その流れから出てみるというのは有効に思えます。 自分自身、「近所をウロウロしているだけでいいや、成長しなくていいや」と思っているときほど、頭の中では自由な発想が浮かび、遠くに飛んでいける感覚が芽生えました。そうしたゆとりが人生には必要だと思います。
フィジーから学べる「幸福の感じ方」があれば教えてください。
前提として、宗教の影響も強いことはお伝えしたいですね。フィジーではキリスト教の人が多く、日曜日に家族と教会に行くのが当たり前で、そこでの交流がコミュニティーの醸成にもつながっています。 価値観としても、信仰上、何事も「神のおぼしめし」と考えます。例えば、今日仕事に遅刻しても、自分が悪いのではなくて、神のおぼしめし。早く行っていたら死んでいたかもしれない。仮に死んでいたとしても、神のおぼしめしなんですけどね。そうした信仰が、そもそも負の感情の防波堤になっている部分があります。

フィジーでは教会がコミュニティーで中心的な役割を果たす 宗教的な要素以外では、とにかくみんな冗談が好きで、いつもくだらないことで笑いあっているところですね。 例えばカフェに行って、門の前にいるセキュリティの人に席が空いているか聞くと、知り合いでもないのに「空いてない。もうつぶれたんだ」って面白そうに言うんですよ。営業しているのは明らかなので、こっちも「またそんなこと言って〜」と笑いあう。そんなことが日常茶飯事です。とるに足らないことのように感じるかもしれませんが、そうした日常が笑顔の総量を増やしていて、「幸福」を作り上げている気がします。 アメリカのショーン・エイカーという心理学者が、有名な講演で「成功するから幸せになるのではなく、幸せだから成功する」と言っています。これはつまり、成功するために頑張る前に、まず自分が幸せに思えるところにいたらいいんだ、ということですよね。 幸せは目指すべきゴールではなく、なにかをするための人間の燃料。個人的にはこうした考え方がとても気に入っていて、フィジーを訪れる生徒たちにも感じてほしいと思っています。 本記事についての簡単なアンケートにご協力をお願いします。 アンケートはこちら
文:星谷 なな 編集:岡 徳之 掲載日:2023年2月13日