由来は映画
ガスライティングとは、誰かを心理的に操る目的で、その人が自らの記憶や精神状態に疑問を抱くよう仕向ける行為を指します。言葉の由来は、英国で生まれた1930年代の戯曲で、1944年にイングリッド・バーグマン主演で映画化された「Gaslight(邦題「ガス燈」)」です。作品は、主人公の女性の財産を狙う夫の策略により、女性が自らを信じられなくなり、精神を病んでいく様子が描かれます。女性が自分の感覚に自信を持てないようにする手口の一つが、ガス燈が暗くなっているのに気づいた主人公の指摘を、夫が「気のせい」と否定するというものでした。 このように、実際にあったり、起きていたりすることを「うそだ」「想像に過ぎない」などと否定しつづけ、「正気を失った」と相手に思い込ませるマインドコントロール的な言動を、この作品にちなんで専門家らが「ガスライティング」と呼ぶようになりました。 具体的には、夫婦関係における妻、会社での上下関係など、さまざまな「力の不均衡」を利用し、精神的に追い詰めるようなことが、「心理的虐待」の一種とみなされるようになっています。時間をかけて徐々に支配を強めていくのが一般的で、年単位の長い時間軸で行われるのも珍しくありません。
英米で流行、背景にトランプ前米大統領
一般的にはさほど知られていなかったこの言葉が、英国や米国で2010年代後半から流行し、欧米を中心に広まりました。その背景として指摘されるのが、2016年に米大統領選で勝利したトランプ前米大統領の登場です。 トランプ氏は、事実誤認や根拠のない発言を繰り返した上で、報道機関による自らへの批判を「フェイク・ニュース」と決めつけ、誤りを認めない姿勢をたびたび見せました。自分のほうに問題があるのではなく、「問題だ」と感じるメディアや国民の現実認識のほうにこそ問題がある、と信じ込ませようとする振る舞いがガスライティングの手口と重なり、SNSなどで言及される機会が増えたとみられます。 その勢いは最近も衰えていません。百科事典で知られるアメリカの大手出版社Merriam-Websterによると、2022年にインターネット上で調べられた回数は、前年比で1740%も増え、同社の「Word of the Year」に選ばれました。 同社が理由として挙げたのは、「陰謀論」や「ディープフェイク」といった偽りの情報のまん延でした。情報操作によって現実認識をゆがめようとする時代の風潮への警戒心から、ガスライティングへの関心が高まりました。その中で、言葉の意味も「だます」「うそをつく」といったより幅広い使われ方に変わったとみています。
海外の対策
ガスライティングは、暴言や無視といった明確な加害行為がないため、被害者本人が虐待されていると気付きづらいのが特徴です。身を守るには、まずは虐待を受けていると認識したうえで、自らの認識能力への自信を失わないためにも、周囲に相談することが大切といえます。 こうした点を踏まえ、対応しているのが、米国政府が出資する24時間対応の「DV(家庭内暴力)ホットライン」です。ホームページ上で「否定」「忘却」「矮小化」など具体的な手口と、精神分析医の示す「被害のサイン」を紹介しています。「1日に複数回『神経質すぎないか』と自問自答してしまう」「いつもパートナーに謝っている」などのサインに心当たりがあれば、相談するよう呼びかけています。 明確な加害行為がないとはいえ、ガスライティングは精神疾患の原因となったり、最悪の場合、自殺につながったりするともいわれます。被害の深刻さから、英国では、加害者の法的な責任を問うことで抑止を目指す動きがあります。2015年の法改正では、「家族、もしくはそれと同等の関係性の人を心理的に操る、あるいは威圧する言動」(Serious Crime Act76条)が5年以下の懲役などが課される違法行為として定められました。これにはガスライティングも含むと解釈されており、英政府によると、認知件数は2016年の4,246件から2020年には24,856件と約6倍に増えました。 ただ、訴追される件数はその一部にとどまっています。立件が難しい理由として、英政府の報告書は、ほかの虐待と異なり一つの行為をもって加害とみなせず、証拠集めが難しい点などを挙げています。加害者の責任を問うのが難しいことも踏まえ、虐待が続く場合、同じ空間で過ごすのを避けるのが得策といえるでしょう。
職場でのガスライティング
職場におけるガスライティングに言及する例もでてきています。米国のナイキで28年間働き最後は副社長まで務めたミーガン・カールという女性が、2023年に「勝つために去れ―職場のいじめに立ち向かうためのプレイブック―(原題:Walk Away to Win)」という本を出版しました。ミーガン氏は職場でいじめをするタイプを5分類していて、そのうち1つの分類として「ガスライティング」をするタイプがいることを指摘しています。具体的には、すでに知らせた情報について聞いてきたり、会議の開催等を本人に知らせず、「どこにいたのか」と聞いてきたりするようなことをあげ、ミーガン氏は「管理職によって行われる」「権力があることを誇示するために行われる」と指摘しています。
日本でもパワハラに該当する可能性
日本では、ガスライティングという言葉が欧米ほど浸透しておらず、定義も難しいことから、相談機関や行政による注意喚起の動き、英国のような法的規制に向けた動きなどは、2023年時点でみられません。 一方、職場などでのハラスメントについての問題意識は年々高まっており、今後関心が高まれば、企業は対応を求められる可能性があります。 2020年(中小企業は2022年)に施行された通称「パワハラ防止法」では、優越的な関係を利用し、身体的、精神的な苦痛を与えるパワハラ行為の防止に努めることが企業にとって義務化されました。具体的な行為として明示された「暴行」「暴言」などの中にガスライティングは含まれていません。 ただ、厚生労働省が2018年にまとめた「職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会報告書」では「別の行為類型が問題ないことを示すものではない」との認識が示されています。このような行為の横行や、重大な結果をもたらすような事象などを通じて、日本でも問題視される可能性はあるでしょう。 ガスライティングの難しさは、本人の認識に問題がある点といえます。職場でのガスライティングを疑った場合、社内外の中立的なハラスメントの窓口や、職場以外の友人や外部の専門家など、自分の状況に対して利害関係がなく客観的に捉え、アドバイスしてくれる人に相談できるようにしておくのが良いかもしれません。 本記事についての簡単なアンケートにご協力をお願いします。 アンケートはこちら
文:福田 小石 掲載日:2023年6月23日