先天性の下半身まひ
障がいがあると、自覚したのは何歳のことだったのだろう。 関さんの両脚は、関さんの思うようには動かない。先天性の二分脊椎による下半身まひ。それが関さんの障がいの名称だ。 歩くには脚に器具をつけ、両手に松葉づえを持つ必要がある。腰の回転と、わずかに反応する一部の筋肉を使って脚を前に出す。移動に時間はかかるし、持てる荷物にも制限がある。学生時代、アルバイトを見つけることも、希望の就職先に出会うことも難しかった。日常生活を送るうえで、自分でできないことはほぼないが、社会的には「我慢したり、妥協したりしながら生きていかないといけないのかな、と思っていた」という。 だがそんな関さんは31歳となったいま、「営業職」として他の社員となんら変わることなくグーグルの日本法人で働いている。他の営業職の社員と同じ数の担当企業を持ち、評価指標も同じ。もちろん待遇も変わらず、2歳の娘を育てながら仕事をこなす。

「普通に仕事をしている姿を多くの人に知ってもらうことで、ハンディキャップのある人と社会との橋渡しができたら」と関さんは言う。自分にできることは何か、どうやったらできるかを、考え続けてきた。嫌な思いもたくさんしてきたが、それでも諦めずに「外に出よう」としたことで、今がある。 「もっと大変な人もいる。自分の気持ちに、折り合いをつけなきゃいけないこともある。でも、やりたいことを最初から諦める必要はない」。その思いが、関さんをビジネスのフロントラインに立たせている。
できなかった「お願い」
関さんが生まれたとき、脊椎の一部は体から出ていた。出生直後に、緊急手術。頭蓋の内部に髄液がたまってしまう「水頭症」も併発していた。 幸い命に別条はなく、水頭症はその後、ほぼ自然におさまった。しかし脊椎の問題からくる両脚のまひは、どうしようもなかった。 両手に松葉づえを持てば、なんとか歩行はできた。小中高は出身の東京で健常者が通う学校に通ったが、移動教室の際などは友人の手を借りなければ教材などを持って移動できなかった。 「でも私、自分から友達に『手伝って』と頼めなかったんですよね」 周囲ももちろん、障がいのことは知っている。友人たちはいつも関さんを手伝ってくれたが、当時の関さんはそこに罪悪感のような感情を抱き、自分から「お願い」をすることができなかった。 人がやってくれることを「当たり前」にしたくない。かといって「自分でやる」とも言い切れない。立ち上がろうとする関さんに誰かが気づき、荷物を持とうとしてくれるまでのわずかな時間。善意の手が差し伸べられるのをただ待つだけの、数秒にも満たない時が、いつもやりきれなかった。

小学生の頃 転機は、高校2年生の時にやってきた。米国への海外留学だ。両親の教育方針もあり、5つ年上の姉が高校時代に留学をしていた。両親は関さんにも、姉と同じように海外で学ぶ機会を与えたいと考えていた。 関さん自身、留学を希望していた。英語を身につけたいという思いもあったが、それ以上に、帰国後の姉の、自信に満ちあふれた姿が印象に残っていた。 ありがたいことに姉がお世話になっていたホストファミリーが、受け入れると言ってくれた。障がいのある娘を送り出す両親も、受け入れるホストファミリーも、いろいろなことを思ったに違いない。でも周囲の人はみな、不安や心配などないかのように、16歳だった関さんの思いをかなえようとしてくれた。
フォーク1本先の可能性
米国到着後間もなく、滞在先の電子レンジの前で関さんは固まった。使おうとしたレンジは、身長140センチの関さんには手を伸ばしてやっと届くような高さにあった。 日本ならきっと、察した誰かが手伝ってくれる場面。もしかしたら、レンジの場所を変えてくれることさえあるかもしれない。だがホストファミリーの母は、こともなげに言った。「どうすれば使えるか考えてね。どうしてもできなかったら、やってあげるから」 「適応する力をつけなさい」と、言われた気がした。そう思ってやってみる。だが、どうしてもボタンに手が届かない。関さんは周囲を見渡し、キッチンにあったフォークを手に取る。届いた。できた。 米国の新しい家族と買い物に行くと、彼らはふとした瞬間に「サキコ、ちょっとこれ持ってて」と軽い荷物を渡してきた。本人たちにとってみれば、当たり前の行動だったのだろう。だがものを持たされることは、関さんにとって新鮮な体験だった。「自分も、ヘルプする側になれるんだ」と感じた。

留学先の米国ホストファミリーの母と ホストファミリーだけではなかった。さまざまな人種や文化が入り交じる米国では「人と人は違って当たり前」という感覚が生活シーンの隅々にまで染み通っていた。肌の色も、使う言葉も、好んで食べるものも、違うのが普通。障がいはその一つに過ぎず、留学先の学友たちも、関さんに「できることはする」ことを当たり前に求めてきた。 米国での経験は、関さんに「自分にもできる」という自信を植え付けた。同時に、それまで自分がいかに、両親や周囲の人が配慮し設計してくれた環境の中にいたかも思い知らせてくれた。帰国時、関さんを満たしていたのは、周囲への深い感謝と自立への決意だった。
「私にはできる」
困難に事欠くことはなかった。大学時代、友人たちのようにはアルバイト先を見つけられなかった。募集の多いコンビニエンスストアや飲食店は立ち仕事が前提で、門前払い。座って業務ができるコールセンターなどでの仕事も、採用してくれるところはなかった。だがある時、ダメ元で応募したあるスタートアップ企業が電話営業の業務で採用してくれた。 営業の仕事は楽しかった。会話すること自体が好きだったし、何より、見知らぬ人に感謝されることもあるのがうれしかった。勤め先の社長は、明るくハキハキと話す関さんを頼りにしてくれた。 大学で社会福祉を専攻していた関さんは「障がい者と社会の橋渡しをする仕事をしたい」と考えていた。元々は障がい者雇用などの行政の仕事に就きたいと考えており、厚生労働省のインターンシップにも参加するほどだった。だがアルバイトの経験を通じて、考え方が変わる。「行政の仕事も大事だが、人目に触れる世界で障がい者が当事者として活躍することも同じくらい大事だ」 ハンディが重く、それが難しい人もいる。でも自分は1人で移動できる。座ってする仕事じゃなきゃいけない理由は、ない。関さんは外に出てさまざまな人と出会う、営業職に絞って就職活動をすることにした。

大学の卒業式に友人と 予想していたことだったが、正規雇用を目指す就活にはアルバイトと違う難しさがあった。 日本では満たすべき障がい者の雇用率が法で定められている。企業はそれを意識しており、障がい者が働きやすいようにさまざまな制度や仕組みを用意していることも珍しくない。いきおい、関さんのように障がいのある人は、健常者と同じ雇用を望んでも、そうした「障がい者枠」に誘導されることがある。 エントリーシートを送った企業数は100ほどだった。障がいなどについて記入する欄がないことも多く、その場合は面接に行って驚かれた。面接で聞かれるのは、ほぼ障がいの概要や「身体障害者手帳」の等級、必要なサポートについてだった。関さん個人の思いや経歴、能力について確かめようとしてくれる会社は、極めて少なかった。採用に前向きと思える企業は少なくなかったが、「営業をしたい」と言うと、やんわりと「別の仕事を示唆された」。 「毎日泣いていた」と関さんは言う。頭では企業として必要な確認だと思おうとしても、聞かれるのは障がいのことばかり。自分が顔のない存在になっていくようだった。営業職の希望を伝えたときの、面接官の困ったような表情が苦しかった。

「最後に質問はありますか」。何社目の面接か、既にわからなくなっていた。最近よく名前を聞くようになった外資系の会社の面接で、2人いた面接官の1人にそう聞かれた。 「見ての通り、障がいがありますが、営業の仕事をしたいと思っています。できますか」。おそるおそる尋ねると、その面接官はそれまでにない反応をした。 「なぜできないと思うんですか? 能力は十分だと私は感じましたよ。サポートが必要であれば別に考えましょう」 2012年、まだまだ日本社会では「グーグル」の存在感はそこまで大きくなかった。
「特別ではない」ことの価値
実はグーグルの他に、内定はもう1社あった。誰もが知る日本の大手食品メーカーで、関さんによれば、その企業も「嫌な対応を一切せず、自分らしく働けるイメージを一緒に作ってくれた」という。 家族や親戚はほとんど、もう1社を勧めた。だが関さんはどちらかというとグーグルに引かれていた。「なぜできないと思うのか」。あの場でそう言える社員がいることが、何かを表している気がした。 たらればのない人生で、選択が正解だったかわかることはない。だが少なくとも、グーグルを選んだ関さんに後悔はない。いまの肩書は、ヘルスケア領域のクライアントを担当する広告営業の「インダストリー・マネージャー」。妊娠しお腹が大きくなったときに、会社が車椅子を貸してくれたことを除くと、他の営業社員と異なる「特別対応」は一切ない。それが心地いい。

「特別対応」なく、同僚と働く 社として社会への影響力が増すにつれて、やりがいも増している。「私がこの会社で成長し、普通に活躍していくことが、きっと誰かのロールモデルになり『橋渡し』になる」 2017年、10年以上交際していた男性と結婚し、2019年に娘を産んだ。夫と交際するまではいつか母になるという未来を「100%信じることはできなかった」と言うが、理解ある周囲にも恵まれ「働く母親」という確かな現実を、関さんは生きている。
つながる足跡
もうすぐ3歳になる娘は、関さんにとって「誰よりも容赦のないトレーナー」だ。 幼くして彼女は、関さんが他のママたちのように追いかけっこができないことを理解している。だが頑張れば「かいだんはのぼれる」と知っており、一緒に上り下りしようと誘ってくる。公私ともに「できること」を増やさなければいけない毎日だ。

長女と 少し前、娘と一緒に外出していた際、駅で関さんは転んでしまった。瞬間、関さんが気にしたのは体の痛みではなく、「娘がびっくりして走っていってしまうのでは」ということだった。そうなってしまえば、自分は彼女に追いつけない。 だが実際には、周囲の大人が関さんを助けてくれるまで、娘は関さんを守るように寄り添い続けてくれた。そして母を助けてくれた見知らぬ大人に、小さな体で言った。 「ありがとう」 それは幼い頃から、関さんが人の何倍も言ってきた言葉だった。素直に口にできないこともあった。だがいつからか、言われることが増え、生きる糧にもなった特別な言葉だ。 娘はきっと、大きくなったときこの出来事を覚えてはいないだろう。だが幼い彼女が屈託なく、自分の代わりに「その言葉」を発したことは、関さんの胸に熱いものを広げた。 ありがとうと言われることも、言えることも、どちらも誇らしいことなのだ。 脚は相変わらず、ほとんど動いてはくれない。 それでも、全身で踏み出し続けた一歩は、思い描いた未来に自分を連れてきてくれた。 その足跡を、最愛の娘が見ている。 本記事についての簡単なアンケートにご協力をお願いします。 アンケートはこちら
文:中川 雅之 写真:的野 弘路 掲載日:2022年11月28日