IT会社の社長を辞め、ラケット競技「パデル」普及に人生を懸ける 40歳でのキャリアチェンジ

玉井勝善さんは、テニスとスカッシュの要素を併せ持ったラケット競技「パデル」の魅力を広めるべく、2015年10月に株式会社Padel Asiaを立ち上げました。自ら起業し、14年間経営してきたIT会社の社長を辞してまでの転身。40歳を迎えたタイミングで、今後の人生をパデルに捧げることを決めた玉井さんの歩みに迫ります。

玉井 勝善

(たまい かつよし)

1975年岩手県宮古市生まれ。神奈川県川崎市で小学校4年まで、小学校から大学までを千葉県松戸市で過ごす。26歳でIT企業チアーズ(のちにSORAに社名変更)を起業。40歳でSORAの社長を辞任し、Padel Asiaを設立。日本パデル協会(JPA)副会長。47歳。

きっかけはバーベキューの誘い。パデルとの運命的な出会い

「『なんちゃってテニス』だろうなって思って、最初は乗り気じゃなかった」と玉井さんは振り返る。「パデルというテニスに似たスペイン発祥のラケットスポーツがあるんです。壁に囲まれたコートで、壁も使ってよくて、すごく面白いんですよ。やりましょうよ」と、自社の社員から誘われた時のことだ。しかし高校時代からずっとテニスをしてきた玉井さんにとって最初、あまり魅力的ではなかったという。 「今度、バーベキューをしてお酒を飲みながらパデルができるイベントがあるからいきましょう」と誘われ、それなら楽しそうだな、と軽い気持ちで参加した。2013年に日本に初めてできたという埼玉県所沢市にあるパデルコートだった。実際にプレーしたら、びっくりするほど面白かった。「これは絶対はやるぞ」と直感した。2015年、40歳だった。

それ以来、玉井さんは四六時中、パデルのことが頭から離れなくなった。それは、スポーツとしてのパデルにただハマっただけではなかった。ビジネスの嗅覚が働いたのだ。「こんなに面白いスポーツの施設がまだ日本に1つしかない。このタイミングで自分がパデルに出会ったのは何かの奇跡ではないか」と思った。テニスが好きで、100人規模のテニスイベントを開催したり、社会人の大会に参加したり、テニスに関連するWebサービスを立ち上げたこともあった玉井さん。「これから誰かがパデルを日本で広めるんだよね。それって俺しかいないじゃん」とまで思い始めたのだ。 日本テニス協会の試算では、日本のテニス人口は400万人以上で、約6,500のテニス施設に26,000以上のコートがある。ただしこのコート数は20年前に比べて3割ほど減っているというのが厳しい現実だ。 そんななか、なぜパデルがはやると思ったのか。テニスとは何が違うのか。玉井さんはこう語る。 「普通のテニスはサーブなどの技術が難しく、習得度の差が出るし、体力が必要で初心者には厳しい。だけど、パデルは違う。コートの内側の広さはテニスコートを少し小さくしたサイズ、コートのラインの外はすぐ壁で、跳ね返ってくる球を打つことができるし、ダブルスが基本ルールなので、動く範囲が少ない。また、ラケットはテニスラケットより短く、板状なので手の平感覚で扱え、どこに当たっても真っすぐ飛んでくれる。初級者と上級者くらいのレベル差があってもある程度ラリーが続くのでゲームになる」 それでいて、周囲の壁を戦略的に使ってプレーすることで勝機をつかめるので、奥深さもあるのだという。

上級者と初心者が一緒に楽しめるパデル人気が世界で爆発

初心者にも、普段運動していない人にも、高齢者にも優しい。それらの理由から、世界では老若男女に楽しまれている。発祥の地スペインでは、パデルの競技人口が400万人を超え、テニスを上回り、サッカーに次いで2番目の競技人口を持つメジャースポーツになっている。 「アルゼンチン、ポルトガル、イタリア、北欧でも人気が急激に上昇している。人口が約1,000万人と、日本の人口の10分の1であるスウェーデンでは、2019年には717コートしかなかったが2021年には3,500コート以上と、約2年で約5倍に増加している。世界各地で同時多発的に、パデルがテニスの人気を抜きつつある」と玉井さんは言う。 世界全体では、競技人口が2,500万人を突破。2023年のヨーロッパ競技大会の正式競技に採用されたほか、近い将来にオリンピックの種目となる可能性が高いのではないかともいわれている。それなのに日本ではまだ知名度はほとんどない。「伸びしろしかない」と玉井さんは感じた。 こんなデータもあった。パデルはコート数が50を超えてから、どの国でも急激にコート数が増えているのだ。この「50」という数字に、玉井さんは可能性を見いだした。「日本のパデルコートはまだほんのわずかしかないが、50コートならば自分たちで造ることも不可能ではない。自分たちで仕掛けて、一気に普及させていけるではないか」と。

自ら起業した会社を後任に譲り、パデルに命を懸ける

玉井さんは1975年、岩手県宮古市生まれ。幼い頃、父が事業に失敗し、2度、夜逃げを経験したことがある。父を見て、「人って会社がつぶれても何度でも立ち直れるんだ」と学んだのが玉井さんの原体験だ。大学は1年休学してワーキングホリデーでニュージーランドに。大学卒業後にベンチャーで働き、26歳でIT企業チアーズ(のちにSORAに社名変更)を起業。14年間、およそ30名の会社を引っ張ってきた。

起業したIT企業の社長時代 そんな現役のIT会社社長が、スポーツ施設の開発と運営のビジネスを始めたいなど、普通では考えられないかもしれない。しかしパデルと出会って4カ月、玉井さんはPadel Asiaの立ち上げを決意する。しかもSORAの経営からスッパリと身を引き、所有していた株式もほとんど譲渡した。 「会社自体はそれなりに収益も出ていて、業績も良かったといえば良かった。ただ、14年間も経営をしていると、自分の社長としての能力の天井も見えてきて。このまま続けても日本を代表するようなIT会社にはなれないな、と。自分よりも経営をうまくできる人は他にもいる。であれば、他の人にIT会社の経営は譲って、自分は新しいことに挑戦したほうがいいのではないかと思った」 当時、玉井さんの年齢は40歳。30代から40代になるなかで、自然とビジネスパーソンとしての「賞味期限」についても考えるようになった。「がむしゃらに働ける時間もそんなに多く残されているわけではない。賞味期限が短くなっているなら、思い切って新しいことに挑戦してみよう。それが無謀に思える挑戦だったとしても」と思ったという。

クラウドファンディング、トークンなどITを活用した運営を

では、なぜ玉井さんはパデルの普及を「自分ならできる」と思ったのか。ほぼ無名状態のスポーツをイチから普及させるのは、簡単な話ではない。周囲からは難しいと思われる状況の中でも、玉井さんにはこんな狙いがあった。 「スポーツの普及や振興は一般的に、元アスリートがやることが多い。その一般的な枠組みから外れて、IT業界出身の自分がスポーツの普及に取り組むことで、何か掛け算的な形で新しいことができるんじゃないかと思った」

2015年10月にPadel Asiaを立ち上げてから、玉井さんは最初のパデル施設「PADEL TOKYO」をオープンするためにクラウドファンディングを実施。「IT業界では、クラウドファンディングの活用は当たり前かもしれないが、スポーツ業界では当たり前ではない。だからこそ、やってみたら面白いんじゃないかと思った」と玉井さんは振り返る。結果的に、352人の支援者から、785万6,000円の資金が集まるなど、プロジェクトは当初の想像よりも大きな反響を得た。 2016年12月に東京都練馬区にPADEL TOKYOをオープン。ただ、やはり知名度のなさからか、立ち上げの苦労はあったという。「オープン当初はずっと暇で。それこそ、コーチと2人でコートを使ってキャッチボールしていたくらいですから」と玉井さんは笑いながら振り返るが、そのコートも今では平日の朝からフルタイムで賑わいを見せている。「1カ月先のコート予約を受け付けているのですが、週末の予約は数分で埋まってしまい、1時間くらいで1カ月分の予約枠も全て埋まってしまう」という。 2016年6月には、日本でのパデルの普及・発展を目的に一般社団法人日本パデル協会(JPA)を設立し、玉井さんは副会長に就任。その日本パデル協会では、2021年10月に日本のパデル人口の拡大に向けて、ブロックチェーン技術を利用した次世代のクラウドファンディング「FiNANCiE」上で、スポーツ団体としては初めてトークンの新規発行・販売を行っている。現在、トークンの価値は順調に上がっているという。

「パデルの爆発的な普及の土台はできた」

Padel Asiaは2018年に千葉県に「パデル&フットサル 晴れのち晴れ」をオープン。その後、愛知県にも「PADEL NAGOYA」をオープンするなど、拠点数を拡大している。2023年の年明けには、東京スカイツリー付近の複合商業施設「東京ミズマチ」にも施設をオープンする予定だ。 Padel Asia以外でもパデルコートの設立・運営を始める企業が少しずつ出てきた。玉井さんは今、他社がパデル施設を立ち上げる際のコンサルティングにも奔走している。 「パデル施設運営はきちんとビジネスとして成り立つ」と玉井さんは語る。テニスコート1面分の面積でパデルコートを2面造ることができるため、利益率も良いのだという。

「ようやくパデルの魅力が世の中に広まっていき、少しずつ価値が認められてきた。2023年のうちに、日本でもパデル施設が50コートを超えると思う。パデルが爆発的に普及する土台は出来上がった」と玉井さんは言う。 IT会社の社長を辞め、40歳で異例ともいえるキャリアチェンジを図った玉井さん。苦しかった時を乗り越え、ようやく成長の軌道に乗り始めたPadel Asia。社名に「Asia」とある通り、日本だけで終わる予定はない。まずは日本でパデルを普及させた後、アジアへの普及を目指していく。玉井さんの挑戦は、ここからが本番だ。 本記事についての簡単なアンケートにご協力をお願いします。 アンケートはこちら

文:新國 翔大 写真:嶺 竜一 掲載日:2022年12月21日