仕事を辞め、廃業寸前の「町の映画館」を継いだわけ 育った町に「文化」を残す

大分県日田市にある、小さな町の映画館「日田シネマテーク・リベルテ」を14年前に引き継いだ原茂樹さん。TSUTAYA(ツタヤ)、ヨドバシカメラの販売員、お守りの営業というキャリアを積んできた原さんがなぜ、小さな町の映画館を立て直すことになったのか。キャリアの選択に迫ります。

原 茂樹

(はら しげき)

大分県日田市出身。映画館「日田シネマテーク・リベルテ」オーナー。35mmフィルム映写技師。TSUTAYA、ヨドバシカメラなどに勤務し、31歳の時に「日田に一つだけある映画館が閉館するかもしれない」という話を聞いて、映画館を立て直すことを決意。2009年に前オーナーから引き継ぎ、「日田シネマテーク・リベルテ」をオープン。46歳。

オーナーに請われた「町の映画館」の承継

「北部九州のおへそ」とも言われる、大分県日田市。人口6万2000人弱の小さな町にある「日田シネマテーク・リベルテ」。今から14年前の2009年、閉館の危機にあったこの小さな映画館を、原茂樹さんは引き継いだ。 1980~90年代にかけて独自に選んだ映画を上映する規模の小さい映画館、“ミニシアター”が流行した。1991年に創業した日田シネマテーク・リベルテも、地域住民を中心に愛され、多くの人が足を運んだ。 しかし、2000年代に入ってから複数のスクリーンがある映画館「シネマコンプレックス(以下、シネコン)」が台頭し始め、ミニシアターの数は年々減少。1990年代後半に約2000あった一般館(シネコン以外)のスクリーン数は、2022年には406まで減っている。日田市にも7館の映画館があった。 日田シネマテーク・リベルテも、2010年を前に2度目の閉館の危機に陥っていた。1度目の閉館時に映画関係者だった人が事業承継をしてオーナーとなったが、結果的には経営を立て直せず、「このまま閉館するしかない」という状況に追い込まれていた。

原さんは、「リベルテがなくなるかもしれない」という話を友人から聞いた。映画と音楽を好み、小さいころから映画館で数え切れないほど映画を見てきた。「なんとかしなければ」と思い、2006年くらいからボランティアで映画館の運営をサポートすることにした。若い支配人の相談相手となり、あれこれアドバイスをしていると、ある日、オーナーから打ち明けられた。「経営を引き継いでくれないか。原さんが引き継いでくれなければ閉館になる」と。

「文化の世界で生きていく」 高校時代の決断

高校時代は野球漬けの日々。地元の進学高のエースピッチャーで、野球で進路を得る道もあった。「でも、一般的にスポーツ選手としてのキャリアは短いじゃないですか。30歳を超えたらベテランと言われるくらいですからね」。原さんは野球選手としてキャリアを積んでいくイメージが持てず、かかった声は断った。受験して合格していた大学もあったが、「心から勉強したいと思えることがみつからなかった」と進学もやめた。 野球よりも、進学よりも、音楽や映画などの「文化」の世界に触れていたいと思っていた。原さんの父親が日田市でレコード店(後に区画整理のため閉店)のジャズ担当として働いていて、幼いころから音楽に触れていたことも影響しているかもしれない。「文化はある意味、『精神の世界』でもあるので自分の一生を費やすことができるな、と。年齢を重ねるごとにどんどん深みが出ていく。ゴールがないですし、この先の人生、ずっと興味を持ち続けられるものだと思いました」 高校卒業後はTSUTAYAでアルバイトとして働いた。さまざまな音楽や映画に触れる中で、自然と「作る側」への興味も湧いていった。 「それまでは見る・聞く側だったのですが、作る側も一度経験しておきたいなと思ったんです。作る側になることで見えてくるものも、きっとあるんだろうなと」 地元の友人から1時間1人500円の貸スタジオを教えてもらうと、すぐさま楽器を持つ友人らに声をかけ、バンドを結成。「何かしらの目標やゴールがないと物事が進んでいかないので」と、半年後にライブハウスに出演することも決めてしまったという。結果的に、そのバンド活動は10年ほど続き、多くのミュージシャンや映像系のクリエイターなどとつながりができた。このつながりは、のちに映画館運営に欠かせないものになる。

当時のライブフライヤー。中央が原さん

地元に文化を残すために

写真も好きだった原さんは25歳の時に福岡のヨドバシカメラに就職もしたが、売り上げを優先する大手家電量販店の考え方が原さんの価値観とは合わず、5年ほど働いて転職を決意。ハローワークに行った。 「働く条件を入力してみたら8000件くらい出てきて。ここから選ぶのは絶対無理だと思って、どうにか絞り込もうと、ふとひらめいて、キーワード検索に『神社』と入れてみたら、1件だけヒットしたんです。これまでに音楽、映画、写真という文化には接してきましたが、神と信仰という日本文化には触れていないなと思って」 就職したのは「お守り」を製造する会社で、原さんの仕事は神社への営業だった。規模の大きな神社が主要顧客とされていたが、さまざまな神や信仰に興味があった原さんは、大小問わずあちこちの神社を訪ね歩いた。日田の小さな神社にも営業をした。1件あたりの納品額が大きい方が効率はいいのかもしれないが、原さんは規模や効率性重視のやりかたはしなかった。それでも、小さな取引を積み重ねて売り上げ目標は達成していた。 「リベルテがなくなるかもしれない」という話を聞いたのは、原さんが企画した日田の神社のお守りが完成し納められたころのことだ。はじめは「何か少しでも役に立てば」という気持ちで、お守りの会社で働きながら運営を少し手伝った。そしてしばらくすると、オーナーから経営を引き継いでほしいと頼まれた。「原さんしかいない」と言われたが、一度は「自分にはできないです」と断った。「自分は中途半端なことができない性格ですし、経営も経験がない。誰も成功していない映画館の運営には前向きになれなかったんです」 だがそれ以降、映画館のことが頭から離れなくなった。「僕が断ったら本当になくなってしまう。それでいいのか」と悩んだ。「映画館がなくなるということは、つまり異なる文化が入ってこなくなるということではないかと。そうなると、考え方の同質化が進んでいく。自分が引き継がなければ、生まれ育ったこの町に文化が入ってこなくなる。それはきっと後悔する」。そう思った。 仕事を辞め、日田シネマテーク・リベルテを再建することを決めた。31歳だった。

日田シネマテーク・リベルテの一角にあるギャラリースペース

多様な価値観が集まる場所に

2008年に事業承継し、いったん閉館。再開まで準備にはおよそ1年がかかった。1年間は仕事をせず、貯金を切り崩しながら、経営を勉強し、再建計画を練った。思いを形にするには資金も必要だった。借り入れをするために、プランを練り、事業計画書を作った。 意識したのは「映画を中心としたコミュニティーサロン」としての映画館を作ることだった。映画のチケット収入だけでは経営が成り立たないことはわかっていた。定期的にイベントを開催して人を集め、飲み物や物品を販売するなどして収益を成り立たせることを考えた。資金を公庫から借り入れることができ、映画館の内装を作り変え、館内にはカフェやショップ、ギャラリースペースなども併設した。いろんな価値観、考えを持つ人たちが集まり、映画や音楽やアートから影響を受ける。いろんな感性が刺激される。そうなった人たちが、おいしいコーヒーを飲みながら自然と会話できる。そんな場所が映画館だったらすてきじゃないか。 「映画は、過去や未来、他の国の事情を垣間見たり、自分以外の他人の人生を疑似体験したりできる。何かしらのメッセージをくれるんですよね。音楽も、絵もそう。それをその人がどう受け取るのかは自由で、それぞれが異なる意見や考えを持つはず。そこに良い悪いもない。でも最近の映画は、『良い映画』か『悪い映画』かという批評がされるようになりましたよね。宣伝が多くてわかりやすいいわゆる『良い映画』はヒットする。シネコンではヒット映画ばかりかかっている。映画の世界でも、多様性というよりも同質化が進んでしまっている。それは僕の考える文化とはちょっと違う。 似たような価値観の人たちで集まることが多い時代において、別々に暮らしている人たちが平等に何かのメッセージを受け取れる場所はなかなかありません。それぞれの価値観で受け取り、いろんな意見が生まれ、それを許容する。そんな場所があるべきだと思ったんです」

この道を選んで「良かった」

再オープン当初は苦戦を強いられた。1日の来場者数が数人という日もあった。だがやみくもに集客しようとは思わなかった。お守りの営業で、「小さいことでも積み重ねれば、大丈夫」という感覚があった。目先の数字を急いで追うのではなく、長い目で見て多くの人が「来たい」と思えるような空間づくりにこだわった。原さんは、ミュージシャン時代にできたつながりも含め、いろんなつてをたどって、たくさんの映画人、音楽家、画家、絵本作家、陶芸家に会い、日田という小さな街にこんな映画館があるから来てほしいと伝えた。そのつながりは複雑に、大きく広がっていった。 2009年の再オープンから14年。小さな積み重ねは実を結びつつある。今や月間の来場者数はのべ1500~2000人になった。経営もようやく、数年前から黒字に転換しつつある。海外で活動する音楽のアーティストや絵本作家も訪れ、アートイベントやライブが行われるようになった。アーティストがここでライブやイベントをすれば、遠方からでもファンはやってきてくれる。そうしてやってきた人たちが、また知らなかった新たな何かに出会い、影響を受ける。そんな循環が起きてきた。 「みんな根底には映画や映画館が好きだという思いがある」と原さんは話す。日田シネマテーク・リベルテをきっかけに、活躍の場を広げるクリエイターやアーティストもおり、原さんは「ただただうれしい」と笑う。

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『バビロン』『冬の旅』『ロスバンド』……。日田シネマテーク・リベルテで上映する作品は、原さんが世界中の作品から厳選している。はやりの大ヒット映画ではなく、多くの人が「良い」とは言わないかもしれない。だけど、それでいい。

14年かけて築き上げてきた、コミュニティーサロンとしての映画館。大迫力の巨大スクリーンもなければ、座席数も63席しかない。規模は小さいかもしれないが、大都市のシネコンでは得られないものがある。だからこそ、県外からも日々多くの人が足を運ぶ。 原さん自身が、他人とは異なる選択をし続けてきている。もしかするとそれは、多くの人に「良い」と言われないことかもしれない。だが「映画(や芸術)が本当に好きだと思っている人たちが集まってくれて、ここで新しい村ができて来ているような感覚がある」と、原さんは言う。「この道を歩んできて良かった」。今はつくづくそう思う。 本記事についての簡単なアンケートにご協力をお願いします。 アンケートはこちら

文:新國 翔大 写真:嶺 竜一 掲載日:2023年4月24日