欲しかったのは自由
我慢の糸は、突然、プツンと切れた。 きっかけは、海外旅行のための休暇申請が却下されたこと。事前に了承も得ていたはずの申請だったが、却下となった理由は、ほとんど説明もされなかった。 「じゃあ、辞めて行きます」。実際、その翌日に上司に退職を願い出た。その場の勢いだったことは否めない。しかし、日々の業務で感じていた息苦しさのうっぷんがその時はじけた。 幹部のデスク掃除。会議で使う鉛筆の準備。鉛筆は「日銀マーク」を上に向けて、メモ帳から先端が3センチ出るように整える。そうしたことが暗黙のうちに「女性の仕事」だった。仕事ぶりは、年配の先輩女性社員に事細かにチェックされた。あるとき「自分の机くらい、自分で拭けばいいのではないですか」と言ったら、こっぴどく叱られた。 「誰が悪いわけではない、そういう時代。でも自分もその時代に育ったが、くだらない規則に神経をすり減らすより、人生においてもっと大事なことがあるのではという思いがずっとあった」と松原さんは話す。 年に一度の海外旅行は、松原さんにとってそうした日々の窮屈さから自らを解き放つ大切な機会だった。その年も10日間ほどの休暇を計画していた。夏休み期間は出勤する代わり、秋に休みを取ることも了承を得ていたはずだ。なのに、なぜ。 新卒で日本銀行に入ったのは1980年代。日本経済がバブル期の絶頂に向かっていた頃で、日銀は誰もがうらやむような就職先だった。「当時の行内では、日銀は世界で一番いい職場という雰囲気があった」と松原さん。そこで6年半勤め、仕事ぶりも評価されつつあった。 また、女性が仕事を辞めるといえば、真っ先に「寿退社」が連想された時代。当時のしきたりに従い、退職前日に建物の上から下まで挨拶回りをすると、事情を知らない職員に「結婚お決まりですか。おめでとう!」と祝福された。

新年に着物出勤した際の写真 中央が松原さん 当時の世間的な「ジョーシキ」からすると、松原さんはそこからかけ離れた動機で、日銀を去ろうとしていた。不安がなかったといえば、うそになる。だが不思議と、辞めると決めて心は晴れやかになった。 「せっかく自由の身になるなら、10日じゃなくて、もっと長く海外に行こう」。そう決めると新たな世界への希望で、胸が躍り出していた。30歳目前の決断だった。
「キャリアに有利」より「自分が好きなこと」
手配した航空券は、一番好きだったイタリア行きのものだった。渡航前は1年後には帰国して就職活動をするつもりだったため、より就職に有利になりそうな英語圏に行くことも考えた。しかし、最終的には「本当に好きな国に行き、自分自身を完全にオフな状態にして、本当にしたいことを考えたいと思った」という。 半年間、語学学校でイタリア語を学んだ。旅行で訪れ、大好きになっていた国だったが、暮らしてみると想像以上に混沌とし、公的機関の機能不全に振り回される日々。やりたいことの半分もできなかったが、日銀時代に蓄えた資金は渡航から半年で底をついた。 イタリアに思いを残しながら、いったん帰国。イタリア関係のデザイン会社に就職する。再度資金を蓄えながらイタリアへの思いを募らせ、松原さんは2年半後には再び渡航する。 2度目の渡航では、国立の外国人大学で語学だけでなく、イタリアの文化や経済も学んだ。準備ができていたからか、2度目のイタリア生活は想像以上に楽しかった。「この国に、少しでも長くいたい」。そう思った松原さんは、現地で仕事を探すことにした。

1993年撮影、自宅で学校のクラスメートとのホームパーティーの様子 左から2番目が松原さん 最初に得られた仕事は、映像関係の翻訳の仕事だった。知人の紹介だったが、当時の為替レートで、時給は数百円。そこからさらに税金を引かれ、手元にはほとんど残らなかったが、何とか暮らすことはできた。 それから数カ月して旅行代理店で観光通訳としても働き始めた。世界中の人が憧れる数々の観光資産を持つイタリアでは、観光ガイドは国家資格。その資格を持つイタリア人の日本語通訳として、ガイドに同行する仕事だ。 バブルがはじけた後とはいえ、経済力を増した日本人の多くが、海外旅行を楽しむようになっていた。イタリアは特に新婚旅行先として人気が高く、松原さんは一生に一度の大切な旅行を楽しんでもらえるようにと、工夫を凝らした。この頃同行したお客さんで、今でも年賀状のやりとりをしているカップルもいるという。

イタリア・ベネチアで初仕事としてお客様アテンド。奥が松原さん そのうち、個人旅行だけでなく企業からも通訳の依頼が来るようになった。 例えば、イタリアの家電メーカー「デロンギ」の日本法人デロンギ・ジャパン。日本法人の設立は1995年で、日本とイタリアの橋渡しをする通訳者の1人になった。当初は同じ仕事をする通訳が他に5人いたが、しばらく仕事をしていると、ある日デロンギ・ジャパンの社長に呼ばれた。「1人の通訳者と長くやりたいと思っている。あなたにお願いしたい」 自分よりイタリア語に堪能な通訳は他にもいた。特にビジネス通訳は、日常会話中心の観光案内とは使う語彙(ごい)が全く異なる。松原さん自身「最初は本当に苦労した」というほど、現場で意思疎通に困ることもあったが、社長は、仕事に対する姿勢や顧客とのコミュニケーションがうまく取れるといった理由で松原さんを選んだようだった。飛び出すように去った日銀での日々は、無意識下で何かの違いを生んだのかもしれない。 松原さんはその後、日伊通訳として確固たる地位を築き、2008年には在伊・日伊通訳翻訳協会の会長に就く。日本の政治家や官僚の通訳もこなしてきた。

ビジネス通訳をする松原さん
予想もしていなかったイタリアでの半生
「人生の半分をイタリアで過ごすことになるなんて」 60歳になった松原さんは、自らの半生をそう振り返る。日銀で働いていたときは、誰もが「いいところにお勤めで」と言って一目置いてくれた。「でもそれは、カナリヤが鳥かごの中でおいしい餌をもらいながら、きれいに鳴いているのと同じ」と松原さんは表現する。 人がうらやむキャリアをかなぐり捨て、つても展望もなく渡航し、住む家もなければ、友達も、仕事も、スキルもない。まさにゼロからスタートした。だが鳥かごから出て、自分で餌を探して暮らす生活は刺激的で、何より思い切り羽を広げて空を飛び回る自由があった。 日銀を去るとき、寿退社ではなく職場を去ろうとする松原さんに、多くの同僚が不思議そうなまなざしを向けていた。だが松原さんの決断をたたえてくれたある上司は、こんな言葉をかけてくれた。 「人生はね、みんな取り返しがつかないと思っているけど取り返しはつく。好きなことをやったらいいよ。どうしても行き詰まったら、僕なり、周りの人に頼ればいい」 もしかしたらあの上司も当時、心の中で鳥かごから出たいと願っていた一人だったのかもしれない。 うまくいったことばかりではない。失敗も多くあった。だが不思議なことに、言葉の通じない異国の地でも、目の前のことを一生懸命やっていると、声をかけてくれる人が必ずいた。「目の前のことをクリアすると、見えてくる目標もある。いきなり大きなゴールを掲げなくてもいい。今できる小さな挑戦を積み重ねれば、いつのまにか道は開けるのかな」 2008年には、イタリア政府公認のソムリエ資格を取得した。そして私生活では2019年、56歳の時に現地で結婚もした。現在はブドウ畑の見えるミラノ郊外に暮らし、ワイナリーとの信頼関係を生かして、ワインを通じた日本とイタリアの食文化をつなぐ活動もしている。「やりたいからやる」という松原さんのチャレンジは、今なお続いている。

ミラノでのワイン講座 「イタリアに行きたいから行く、ブドウ畑の見えるところに住みたいから住む。それでいいじゃないですか」 何の根拠もなく、すぐに幸せだと口にするイタリア人の楽天さに年々、感化されている面はあるかもしれない。だが若かりし日の自分が「じゃあ辞める」と言わなければ、この人生はなかった。 ブドウ畑を望む自宅でグラスにイタリアワインを注ぐと、豊潤な香りが部屋中に放たれる。その土地で育った果実が時の熟成を経て放つ芳香には、なぜか、人の生を凝縮したかのような奥深さが潜む。 本記事についての簡単なアンケートにご協力をお願いします。 アンケートはこちら
文:星谷 なな 編集:岡徳之(Livit) 掲載日:2023年7月21日