「社会が厳しいんじゃなくて、会社がおかしいんだよ」 私を変えた言葉

上司や同僚、家族からのふとした「言葉」が、あなたを変えたことはありますか。誰かの心を救い、あるいは奮い立たせた言葉の数々を取材し、エピソードを添えてお伝えします。

森田弥生(32歳、仮名)

おむつがとっくに取れたはずの下の子が、おねしょをするようになった。 理由は察しがついた。母親の私が、ほとんど家にいてあげられないこと。朝に出社し、昼食を食べる暇もなく大量の注文書や契約交渉と格闘し、帰るのは決まって終電だった。 夜は寝静まった子供たちを起こさないように、こっそり布団に潜り込む。「社会って厳しいな」と思いながら。

学生結婚をして2人の子供に恵まれた。夫が在宅勤務ということもあり、新卒から数年遅れてフルタイムで働き始めた。知人に紹介されたベンチャー企業は、「急成長」といえば聞こえはいいが、実態は安い単価で大量の受注をし、過酷な業務で回していた。 エンジニアの大半は、泊まり込んで仕事に没頭している。余裕のない職場だから、自然と飛び交う声は荒くなり、言葉もとげとげしくなる。あ、泣いている同僚がいる。手を貸してあげたいけど、自分の仕事が遅れれば顧客に迷惑がかかる。 「ごめんね」と、心に蓋をして作業を続けた。やっぱり、「社会って厳しいな」と思いながら。

久しぶりに会った親友に、「いやあ、社会って大変だね」と、事情を話した。帰りたくても帰れない、息つく間もない忙しさ。ちょっとした愚痴のつもりだったが、話を聞いていた彼女は血相を変えた。 「それ、社会が厳しいんじゃなくて、会社がおかしいんだよ」 呆気にとられる自分を前に、彼女はまくしたてた。「私、今度転職するから、後任としてうちに来てよ。良い会社だから」。その3日後には、本当に面談が入った。アルバイト採用が決まり、数か月後に正社員になった。 笑っちゃうほど早かった。本当に。

そうして入った現職では、深夜まで残業する社員はまったくいない。 午後6時を過ぎると、ひとり、またひとり、と帰ってゆく。「え? 夜ってこれからじゃないの?」。驚きがまさって、自分が転職に成功したという実感も湧かない。「働きやすさ」とか、「ワークライフバランス」とか、言葉でしか知らなかったから。 「こんな職場、都市伝説じゃん…」

「お母さん、帰ってきてくれるの!」 子供たちが歓声を上げた。「母親は帰ってこないもの」と思っていたらしい。気がかりだったおねしょも、ピタリと止まった。今では、サッカーや新しい習い事など、子供たちが連れて行ってくれる世界に、私たち夫婦が夢中にさせられている。 初めて働いた職場が良いところか悪いところかなんて、分からないのが普通だ。たまたま友達が手を引っ張ってくれて、私は幸運だったと思う。 「仕事は人生の一部に過ぎない」「せっかくなら、楽しく働きたい」。それが、今の私にとっての願い。社会は、昔の自分が思っていたよりも、ずっと楽しくて、広くて、可能性に満ちていた。 本記事についての簡単なアンケートにご協力をお願いします。 アンケートはこちら

文:佐野 寛貴 掲載日:2024年2月9日