妻が海外赴任になりまして シドニー移住を決断した夫婦の幸福とキャリアパス

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妻の海外赴任が決まり、夫が現地について行き「駐夫(駐在員の夫)」になる――。以前の日本では考えにくかったパターンですが、グローバルで男女平等が進む現在、こんなケースが増えてきました。池有生(ありお)さん・晶子(あきこ)さん夫妻もそのようなカップルの一組。晶子さんのシドニー駐在をきっかけに、3人のお子さんを連れてオーストラリアのシドニーに移住しました。そのとき、夫婦の間でどんな決断があったのか、有生さんは仕事をどうしたのか、経験を伺いました。

目次
  1. 朝、仕事前にサーフィン
  2. 妻がシンガポールで単身赴任
  3. 親子5人、いざオーストラリアへ
  4. 物価の高いシドニー生活、ギリギリから安定へ
  5. 互いの人生が、相手の選択肢を広げる

朝、仕事前にサーフィン

シドニーではどんな生活をされていますか。

有生 朝からサーフィンをしています。僕はリモートで日本の方と仕事をしているのですが、時差でシドニーは東京よりも2時間早い(夏時間の場合)ので、日本の皆さんが起床する前の時間にサーフィンに行って、その後仕事をします。仕事はリモートが前提です。 晶子 シドニーの人はすごく朝が早く、みんな朝5~6時に起きてウオーキングしています。私も朝は早起きをして、ダンスの練習をして、お弁当をパパッと詰めて、子どもたちを小・中学校に送り出しています。勤務時間は日本より短く、夜は子どもの勉強をみて、9時か10時には寝る生活です。

朝からサーフィンとは驚きです。有生さんは今、どんなお仕事をされているんですか。

有生 「Square」という決済システムを中心とした幅広いビジネスツールを提供する企業で、英語のキャッチコピーなどを日本向けにするコピーライターをフルタイムでしています。新型コロナウイルスの感染拡大以前から場所にこだわらない働き方をしている企業で、僕はシドニーにいますが、上司はアメリカ拠点にいて、同僚は東京にいます。 さまざまな部署から「こういうコピーを作ってほしい」という依頼がくるので、それをこなしていくのが仕事です。上司のアメリカ人は日本語を使わないので、「全部まかせた」という感じで裁量が大きく、給与などの条件もかなりいいです。 でも、ここにくるまでには紆余曲折がありました。

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妻がシンガポールで単身赴任

これまでの経緯について教えてください。

有生 僕は新卒で総合広告代理店に入社して、最初はCMの枠を購入する仕事をしていました。それで、30歳手前ぐらいで「クリエイティブ局」に移って、最終的には「クリエイティブディレクター」になりました。 ちょうどそのとき、妻が仕事の都合でシンガポールに単身赴任しました。当時1歳半だった長女を連れて。僕の頭にはそのとき、仕事を辞めるという選択肢はなかったので日本に残りました。「前向きな別居」ですね。

晶子さんはシンガポールにも駐在経験があるんですね。

晶子 はい。私は生まれも育ちも日本ですが、ずっと海外に興味がありました。大学院を修了した後、「海外に行けるところがいい」と思い、日本で外資系の日用品メーカーに就職しました。 10年ぐらい働いたあたりで組織変更があり、ほとんどの部門がシンガポールに移転するという話になりました。そのときに希望を聞かれて、「行きたいです」と手を挙げました。一緒に行くか日本に残るかを聞いたら、「シンガポールには波がない」と渋られ、単身赴任になりました。 有生 あれ、そうだっけ。でも、波がないという理由もありましたが、当時は一緒に行くなら会社を辞めるしかないと思っていて、それが大きな要因でした。辞めてシンガポールに行っても、僕は英語も得意じゃないし、当時は就職できる気がしなかったんです。 晶子 だから夫は、最初は私の駐在に難色を示していました。でも私が「赴任している間に、一人で海のそばに住んで楽しめば」というようなことを言ったら、「じゃあ、行ってきなよ」って。 有生 それで自分はサーフィンで有名な千葉県一宮町に引っ越して、一人暮らしをしました。

晶子さんとしては、単身赴任の形になったのはよかったのでしょうか。

晶子 ベストに近い形でした。「海外に出たい」という思いはありつつ、その時点で夫が仕事を辞めて、私一人に家計の重荷がかかるのも嫌だなという気持ちがありました。だから夫には、仕事は続けてほしいと思っていました。赴任にあたって会社と交渉したら、エコノミークラスで1~2カ月に1回は日本と行き来できるぐらいのサポートをもらえたので、それも後押しになりましたね。

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子育てに対する不安はありませんでしたか?

晶子 まだ就学前でしたし、そんなに心配はなかったですね。シンガポールは結構いろいろなサポートが充実していて、ハウスキーパーさんも住み込みで雇えるし、私の母もちょくちょく手伝いに来てくれました。 有生 僕はやっぱり寂しいと思いましたよ。子どもの1歳半ってかわいい盛りですし、コミュニケーション不足でなつかなくなるんじゃないかとか、心配もありました。でも、最終的には妻の「海のそばに住んでみれば?」という言葉で決断してしまった感じでしたね。 晶子 たしかに子どもを連れて行く後ろめたさはあったかもしれません。だからこそ「いいところに住みなよ」が出てきたのかな、と。 有生 それからしばらく別居生活が続いたんですが、2人目の子どもがシンガポールで生まれたのを機に、僕は1年間の育児休業を取得しました。フルタイムで勤務する男性が育休を取ったのは、たぶん当時の会社では初めての事例だったのではないかと思います。それでシンガポールに移り、「駐夫」になりました。ハウスキーパーさんもいたし、今考えると天国のような暮らしでしたね。「駐妻(駐在員の妻)」に混ざって、料理教室にも通っていました。あとは育休のことを毎日、ブログで書いたりもしていました。これは、フリーライターになるための準備という意味合いもありました。

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親子5人、いざオーストラリアへ

有生さんは1年間の育休の後はどうされたんですか。

有生 日本に戻って前職に復帰したんですが、僕がいない間に代わりの人がプロジェクトを引き継いだりしていて、実はすごく暇になっちゃったんですよ。それでいろいろ考えて、「TABI LABO」というWebメディアを運営する企業に転職しました。そこでコピーライターではなく、記事を書くいわゆるライターとしてのキャリアがスタートしました。 3年弱そこで働いた後、ご縁があって国内のリテールテック系企業に移って「インハウスライター」としてオウンドメディアの記事を書いたり、Webサイトのコピーを書いたりしていました。そうしているうちに、妻に今度はオーストラリア異動の話が出たんです。 晶子 シンガポールで4年過ごした後、「家族みんなで住みたい」という気持ちもありましたし、駐在員としてのサポート期間が切れることもあって、私も日本に帰っていました。帰国後にフランス発のスキンケアブランド「ロクシタン」に転職して、「しばらく日本に住むのかな」と思っていたところに、たまたま空きがあった同社のオーストラリアの仕事の話が来ました。3カ月の短期ジョブではあったのですが、そのときは3人目も産まれていたので、「さすがに子ども3人を置いて短期で行くのはちょっと難しいかな」と思っていたんですけど…。 有生 それには僕が「行ってきなよ」と言いました。シンガポールのときとは逆ですね。オーストラリアはサーフィンが国技のような国だし、僕が好きなクラフトビールの中心地だから、「短期で行って、家族が移住できるチャンスをつかんできてください。そのためなら3カ月ワンオペやります!」といった感じで、送り出しました。そうしたら見事、すぐに移住チャンスをつかんできてくれました。 晶子 長期駐在を現地の社長に掛け合ってみたところ、「お給料は下がるけど、ポジションは空いている」と言われたんです。それで今はロクシタンのオーストラリア法人の現地採用職員として働いています。 当時は長女もまわりに吹聴するぐらいオーストラリア行きに乗り気になっていて、あとは子どもの年齢とか夫の興味とかを総合的に考えて、「リスクはあるけど行こうか」という感じでシドニーに来ました。2019年12月、コロナ禍になる直前です。

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物価の高いシドニー生活、ギリギリから安定へ

そのとき、有生さんは日本でのお仕事をどうされたんですか?

有生 正社員としてリモートで仕事ができるか、ちょっと会社と交渉もしたんですよ。業務委託だったらできると言われましたが、それだと給料が半分になると。それは仕方がないということで、会社を辞めて、フリーランサーとして業務委託で仕事を請け負うことにしました。日本に残るのが前提だった、妻のシンガポール赴任のときの自分がうそのように、あっさりと決断しましたね。 晶子 でもお金のシミュレーションは念入りにしました。収入が下がる一方で、シドニーの物価は高く、家賃は日本の1.2倍ぐらいしますので。 有生 日本で買った家のローンも返していましたしね。 晶子 最初の1年は本当に節約しました。「年収いくら稼いでください」と夫のノルマも決めていました。給料日前には20ドルぐらいしか銀行になくなって、ドキドキしながら5人で過ごしたこともありました。2021年の夏前くらいまでそんな感じでしたね。日本の家が売れたときに一息つけましたが。

有生さんはオーストラリアで収入を安定させるため、どんなことをされたんですか。

有生 とにかく営業をしてフリーライターとしての仕事をもらうのと同時に、チャンスがあればこっちの企業で就職できないかと、求職活動はしていました。 また妻の会社では、パートナーが現地で仕事を見つけやすいように、職務経歴書の書き方などをコンサルティングしてくれるサポートがあり、それを最大限利用しました。実際にアドバイスどおりにビジネス用SNSプロフィールを充実させると、どんどんリクルーターが連絡をくれるようになりました。「英語のコピーを日本市場向けに変換できるコピーライターを探しています」といった案件ですね。 晶子 たぶん、タイミングもよかったんですよね。新型コロナウイルスによるロックダウンでリモートワークが普通になって、採用に地理的な制約がなくなってきていましたから。 有生 それで、ビジネス用SNS 経由で2020年の8月にSquareの契約コピーライターとして採用されて働き始めたのですが、今年5月にフルタイムへの転換のオファーが来て、正社員になりました。

採用の決め手は何だったと思われますか?

有生 「コピーライター×多少の英語力×リテールテクノロジーの知識がある人」という掛け算が成立したからだと思います。それと、僕の上司がサーファーだったんですよ。面接のときもサーフィンの話で盛り上がりました。そういういろいろな掛け算のもとに今があるので、運がよかったとしかいえません。結局は僕が「この1年半でものすごくこれをがんばったから」ということじゃなくて、人生のなかで積み上げてきたものが最終的に機能した感じです。

互いの人生が、相手の選択肢を広げる

晶子さんの駐在がきっかけで、有生さんも新しいチャンスをつかめたんですね。

有生 僕がこんなにいろいろ経験できたのは、妻が海外でいろんなポジションを勝ち取ってきたからだと思いますね。たぶん僕一人だったらフットワークが重く、こうはならなかったでしょう。

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晶子 シンガポールでは周囲にいた中国人や韓国人の夫婦で、妻の仕事の駐在に夫がついてきたというケースは結構ありましたね。夫婦の片方のキャリアだけが回っていくのではなくて、「あるときは片方の都合で、あるときはもう片方の都合で移動する」という選択肢があるんだと新鮮に感じましたね。 選択肢は広がるんですよね。今は私が勤務する会社が家族のビザをスポンサー(招聘)してくれているけど、将来的には反対になることもあるのかなあ、と思ったりします。

仕事も趣味も、2人がお互いに好きなことを楽しんでいるのが理想的ですね。

晶子 ちょっと自分勝手かもしれないですけど、我慢せずにしたいことをしてきてよかったなって思います。シンガポールへの赴任を断っていたら、今とは全然違ったと思います。チャレンジすることで、こんなに楽しい人生を送れるんだって思っています。 有生 僕は広告会社でクリエイティブディレクターをやっていたとき、スタークリエイターのような「何者か」になりたかったんですよ。それがまったく形にならないまま30代を過ごして、精神的にも削られて、「働くことに関して僕はあまりうまくいっていないな」と思った部分もありました。 でも、そういった経験が掛け算になって、今「自分史上最高の会社」で貴重な仕事をいただいているので、結局、後悔することはありませんでした。「40歳になったら転職できない」ということを日本では耳にしましたが、うそだと思いますね。僕が初めてフリーランサーになったのは46歳だし、47歳で自分史上最高の会社に入れたので。「もう30歳になっちゃったよ」とか言う人がいたとしたら、「まだまだ若いですよ」って言いたいですね。 本記事についての簡単なアンケートにご協力をお願いします。 アンケートはこちら

取材・編集:岡 徳之 構成:山本 直子