元警察官が医療サービス改革に挑む 仕事は好奇心で決める

転職のリアル3-1

医師向け人材紹介会社などで活躍し、現在は岡山の医療法人で事業立ち上げに携わっている平山令子さん。実は、キャリアの始まりは大阪府警の警察官でした。異色のキャリアを歩む平山さんの転機の背景には何があったのでしょうか。

平山 令子

(ひらやま れいこ)

医療法人福寿会 運営企画部次長/医療法人社団仁生堂大村病院 。明治大学政治経済学部卒業後、大阪府警察に警察官として入庁。退官後、中国へ渡って駿台予備学校の講師に。帰国して株式会社日本ドクターズクラブで医師向け人材紹介サービスに携わる。株式会社マイナビで医師の人材紹介部署の立ち上げを経験後、エムスリーキャリア株式会社に転職。イーストウエストコンサルティング株式会社を経て、現職。

縁の下の力持ちになりたかった

大学を卒業して大阪府の警察官をされていたと伺いました。どうして警察官を目指されたのですか。

大学の就職のタイミングで、どんな仕事をしようかと考えたときに真っ先に思いついたのが警察官でした。人の役に立つ仕事で、世の中で必要とされている仕事。できればあまり人のやりたがらない、縁の下の力持ちのような仕事に憧れていました。他には自衛隊も考えましたね。縁あって受けた大阪府警察に合格して、警察官になることができました。

警察官になって短い期間で退職されています。どのようなことがあったのですか。

柔道の練習で受け身を取ったタイミングで意識を失ったことがあって、病院で検査を受けたところてんかんの疑いがあるという診断を受けました。てんかん疑いがある状態では、交番勤務などの現場の仕事につけず、警察官として働き続けるのが難しくなって退職することになりました。

転職のリアル3-3

スーツケース1つで中国へ

大阪府警察を辞められてどうされたのですか。

本当に憧れていてようやくなることができた警察官だったので、とても落ち込みました。退職してからは何に対してもやる気が出なくて。社会と接点を持つのも嫌で、ずっと家の中に引きこもる生活を送っていました。そのままずっと引きこもっていようと考えていたのですが、実際にやってみるとそれはそれでつらくて、長くは続きませんでした。社会生活を送っていないと朝昼晩の感覚がなくなって、食事をとるタイミングや、トイレに行くタイミングもわからなくなるんです。それまで警察学校などで規則正しい生活を送っていたのも影響したのかもしれません。

引きこもりを続けられないと気づかれて、次はどうされたのですか。

引きこもりは続けられないと悟ったのと同時に、テレビなどで目にするニュースを見るのが怖くなっている自分にも気がついたんです。ほぼ毎日、事件やその解決といった警察に関連するニュースが流れていて、それを見るだけでも現場で活躍できなくなった自分が嫌で、胸が押しつぶされそうになりました。もうこれは、日本にはいられないと、海外での仕事を探すようになりましたね。

日本ではない場所での仕事を探されたのですね。

はい、海外であれば日本の事件に関するニュースを見聞きすることもないだろうし、人の目も気にならないだろうなと思っていました。だから最初はできるだけ遠い国ということで、アフリカなどで働けるところがないか探していました。もちろんなかなか見つからなかったんですが、最後は自分が予備校時代に通っていた駿台予備学校が中国の上海で講師の募集をしていたので、中国に渡って日本人向けの塾講師をすることにしました。

突然の中国ですが、言葉の不安などはありませんでしたか。

どちらかというと早く日本を抜け出したかったので、スーツケース1つで飛び出すように現地に向かっていました。上海の浦東国際空港に降り立ったときに、交通標識の看板を見て「あ、私中国語わからないや」とあぜんとしたのを覚えています。

言葉がわからなくても中国で生活できたのですか。

実際生活を始めてみると、簡単な英語ができれば意思疎通はできますし、周りの中国のみなさんも優しかったので、なんとか生活することはできました。毎日、それまで体験したことのない出来事が起きるので、エキサイティングでしたよ。あるときは、水道工事の業者の人がネジを締め忘れて、仕事を終えて帰ると部屋が湖のようになっていたりと、いろいろな経験ができました。

転職のリアル3-4

偶然出会った医師の人材紹介の道

その後はどうされたのですか。

1年契約だったので、契約満了後に日本に戻りました。時間がたってくると警察を辞めた心の傷も癒えて、新しい挑戦をしようと前向きな気持ちになれていました。中国に渡ったときは勢いだけで飛び出しましたが、ちゃんと地に足をつけた生き方をしようと職探しを始めました。どうやって探していいのかもわからなかったので、とりあえずインターネットで手当たり次第に探しましたね。そして「千代田区 仕事」で検索したときに出てきたのが、医師の人材紹介サービスをしていた日本ドクターズクラブでした。

どうして医師向け人材紹介が気になったのでしょう。

自分のなかの好奇心が湧きました。「医師」の人材紹介ってなんだろうという。そもそも人材紹介という業態すらよくわかっていませんでしたが、さらに医師が職場を紹介されるってどういうことだろうと興味が湧きました。医師って仕事に困らない職業なんじゃないかと。父が医療関係の仕事をしていたこともあって、医師が身近だったのもあったかと思います。

仕事を始められていかがでしたか。

医師の転職先を探す仕事なので、医師の方とお会いするのですが、何人かから話を聞くうちにドクターって意外と孤独なんだなということに気がついたんです。社会的地位も高くて、仕事や職場環境が特殊なのでなかなか周りの人に相談ができないんですよね。そうした先生方に寄り添っていこうと仕事に没頭しましたね。

総合人材企業で医師向け事業を立ち上げ

そこから次のキャリアはどうされたんですか。

日本ドクターズクラブで医師の転職を支援していたんですが、2013年ごろに大学病院の外科医など複数名のドクターをチームで移籍させることができたんです。それまで医師お一人の転職支援や医局派遣先の紹介はしていましたが、業界にとってもチームでの移籍は珍しく、達成感がありましたね。そこで次の仕事に挑戦しようと、マイナビに移りました。

マイナビではどのようなことをされていたのですか。

マイナビは、元々人材紹介サービスはあったのですが、医師向けのサービスはなかったので、その立ち上げということで参画しました。実際にエージェントとして活動しているのは私一人で、病院などの医療機関と医師のマッチングはもちろん、ホームページの作成や損益計算書の管理などなんでもしていましたね。マイナビは4年半勤務して、ある程度事業の拡大のめどが立ったため、縁あって業界大手のエムスリーキャリアに転職しました。

その後、人材紹介をしているイーストウエストコンサルティングを経て、現在の医療法人福寿会に入職されます。

はい、そうですね。マイナビ時代に参加していたセミナーでお会いした、岡山の医療法人福寿会の理事長から、将来の医療・介護サービスの展望を伺い、そのお手伝いをしたいと思い、2020年から働いています。

キャリアの点数は「99点」

現在はどのような業務をされているのですか。

グループの人材採用、特に特定技能生など外国人人材の採用をしています。他にもサービス付き高齢者向け住宅「テラス藤」の運営や関連する訪問看護ステーション「翡翠」やヘルパーステーション「藍」の運営責任者をしています。また、東京にあるグループ法人の病院やクリニックのWebサイトの運営や医師採用の業務にも携わっています。

これまで幅広いキャリアを歩まれていますが、仕事をする際に大切にされていることを教えてください。

結局は、好奇心の強さがすべてかなという気はしています。私は常に自分のなかでその仕事に関するゴールを決めて、そこを目指すようにしています。今日よりも明日、明日よりも明後日、変わり続けて成長したいなと。

最後に、ご自身のキャリアに点数をつけるとしたら何点ですか。

99点ですかね。残り1点は未来への思いがあるので、現状に満足せず毎日を過ごしたいです。

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転職のリアル3-2

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