
「経営に近い仕事を」20代で社長を経験
新卒で入ったのは大手化粧品会社でした。
入社4年目に労働組合の若手幹部を任されたことが、最初に転職をする大きなきっかけになりました。経営陣と対等に話すなかで、お金や投資、成長計画など、会社全体が見える議論ができて「面白い」と思ったんです。 当時の自分は、プラントの稼働効率などを管理するエンジニアでした。「もっと経営に近い仕事がしたい」と異動願を出したものの聞き入れられず、「会社の歯車になりたくない」と転職しました。
2社目で入ったのが、現職にもつながる人材業界でした。
若いうちから抜てきしてもらえる業界を探し、転職しました。 営業職から始まり、エリアの所長を任された後、新設された派遣会社の社長を28歳で任されました。設立年内に単月黒字化を実現でき、事業を作ることの楽しさを実感しました。大手を辞めてきた手前、がむしゃらに働いたと思います。
その後のキャリアを教えてください。
愛着のあった新設会社から「別の事業立ち上げに携わってほしい」と外されたこともあり、再び転職しました。人材会社やIT企業を渡り歩きました。いずれも新しい成長フェーズの企業で、顧客開拓やアライアンスを通じたビジネスの拡大に携わりました。
介護でブランク「ものすごい恐怖」
40代になってから、介護のため帰郷されました。
父親の介護が必要になりました。母もいたのですが、老々介護になってしまうので、仕事を辞めることにしました。父が特別養護老人ホームに入所できるまでの約2年にわたり、介護をしながら、実家の農業を手伝っていました。
その後の転職活動はどうでしたか。
企画系の職種を探しましたが、苦戦しました。次の仕事が見つかるまで1年くらいかかりました。介護期間のブランクで同僚や仕事相手とも縁は切れていましたし、「果たしてキャリアを取り戻せるだろうか」という不安が大きかったです。

どのように進められたのですか。
「ゼロから1を始める経験」が強みなので、新しい事業や市場開拓に関するポストを狙って書類を40社ほどに送りましたが、ほとんど反応はありませんでした。 転職回数も多く、経歴も特殊だったからか、安心できる他の人材に競り負けてしまったのだと思います。面接官は、私の経歴の話について「面白かった」と言ってくれるものの、採用はされない――そんなことが続きました。
それはつらいですね。
書類が通過しない状況が続き、次第に「自分には価値はないのかな」「もう仕事はできないのかな」と思うようになりました。介護で親が弱っている様子を目の当たりにしたことも、精神的につらかったです。仕事もなく、頼れる人もいない。ものすごい恐怖でした。
状況を突破するきっかけはありましたか。
ヘッドハンターが、人材系の求人を紹介してくれたことが転機になりました。業界経験があったこともありますが、父の介護で外国人スタッフにお世話になり、「こんな田舎まで人材が来てくれて、本当にありがたいな」と感じたことを思い出したんです。
転職の方向性が定まったのでしょうか。
はい。就職先が全く決まらず、焦りが募って、片っ端から応募していた時期でした。確かにそれも大事ですが、当時は「面接のために面接を受けている」感じだったと思います。ヘッドハンターの提案をきっかけに、自分のやりたいことを考え直すようになりました。
最終的には外国人材の紹介会社の企画職に内定しました。
まさに新設に向けて準備をしていた合弁会社でした。面接に応じてくれた社長は人材業界の経験が長い方で、私が過去に在籍していた人材企業を知っていたという縁もありました。「あの会社で頑張った人なら」ということで、ここでも過去の経歴が生きました。
面接ではどのような話をされましたか。
新しい会社なので「予期せぬトラブルを乗り越えられる人材はきっと必要になる」と伝えました。20代の社長時代に、地道に人材を引き抜いたり、広告を打たずに新卒人材を集めたりした経験を話しました。限られたリソースで成果を上げるよう工夫してきました、と。
入社後はどのような仕事をされたのでしょうか。
東南アジア人材の紹介事業を立ち上げました。国内の外食やホテル産業を中心に受け入れ企業の開拓や体制構築をしたほか、現地人材に関する情報収集も並行して実施しました。現地大学に日本での就職を支援する窓口を作ってもらうための働きかけもしました。 折しも、外国人材に関する「特定技能制度」が導入された頃です。国内の人手不足も深刻化していて、これから需要が高まりそうな手ごたえを感じました。
「いくらの計画を立てていますか」
ただ、その人材紹介会社は1年で退職されたのですね。
企業が50%ずつ出資する合弁会社で、現場社員が出身企業ごとに派閥を作ってしまい、足並みがバラバラだったんです。片方の派閥が結んだ契約を、もう片方がひっくり返すなど、ひどい足の引っ張り合いでした。 どちらにも属さない私に対して、「どちらにつくんだ」と迫ってきたり、もう片方の派閥と会議をするときに「何を話したのか教えろ」と言われたり。やりにくくて仕方がないので、入社から半年足らずで転職しようと考えました。

そして2020年、現職の製造会社に入社します。
新規事業として外国人材紹介に参入するという話でした。事業計画はできていて、知見のある人材に立ち上げをしてもらいたい、という趣旨の求人でした。
面接では、どのような話をされましたか。
まずは「いくらの計画を立てていますか」と、こちらから尋ねました。人員や予算などのリソースと、リターンが見合うかどうか。実際に計画を見せてもらい、「この数字で大丈夫ですか」という議論をしましたね。
ご自身の経験を踏まえ、指摘されたことなどもあったのですか。
最初の計画を見ると、人材を探すのにお金を使い、受け入れ先を探すのにも広告を打ってお金を使う仕組みでした。これでは収益化は難しくなります。そうした点を指摘し、「自分だったら、どう落とし込むか」のイメージを伝えました。
説得力がありますね。
ペーパーテストの点数は内定の水準に足らなかったものの、将来性を見込んで採用してくれたそうです。ただ、入社後にビジネススクールに通うよう言われました。実際通ったのですが、過去の経験をロジカルに整理できて面白かったですね。貴重な経験でした。
「やりたいこと」が活路を開く
入社後の状況はいかがですか。
コロナ禍で事業計画の引き直しを迫られるなどの苦労はありましたが、黒字を維持しながらほそぼそと続け、やっと規模を拡大させるメドがつき始めました。 企業は長く働いてくれる人材を求めていますし、外国人の方も安心して、給料が上がり続ける環境で働きたいと思っている。双方が満足できる仕組みが構築できつつあります。
印象に残っている経験などはありますか。
実は、苦い思い出がありまして。 いまの外国人材業界のトップ企業なんですが、実は20年前に企業のアライアンス担当をしていた私が、出資を引き揚げた会社なんです。当時は違う社名で規模も小さく、外国人材自体も注目されていませんでした。成長が見込めなかったのです。 しかし、その会社は、私が出資を引き揚げた後も地道に事業を続けました。いまでは同業として私が勉強させてもらう立場で、自分の過去を思わず反省してしまうのです。
それはキャリアや仕事への考え方にも影響を与えていますか。
そうですね。「仕事や事業を本気でやる」ってこういうことなんだ、と思いました。やりたいこと、ワクワクする感情を大切にするべきなんですね。私自身、転職で苦戦したときに、焦ってやたらに手を出すよりも、内省することで活路が開けたわけですから。 本記事についての簡単なアンケートにご協力をお願いします。 アンケートはこちら
掲載日:2024年5月14日