「自分の強みを」とテレビ局を退社
アナウンサーを志したのはなぜだったのでしょうか。
大学3年の就職活動のとき、自分の考えを分かりやすく人に説明することへの苦手意識があり、母にすすめられた話し方講座を気軽な気持ちで受けに行きました。そのときの講師が現役のフリーアナウンサーの方で、「自分もあんなふうになりたい」と憧れるようになったのがきっかけです。今思えば運命の出会いでした。 ただ、就活を始めたときには、すでにキー局などの採用は終わっており、応募可能だった地方局を受けるなかで、採用してもらったのが宮城テレビ放送でした。
宮城テレビ放送ではどのような仕事をしていましたか。
入社1年目の夏から退職までの7年間、情報番組のMC(司会者)を担当させてもらいました。入社年の2012年は東日本大震災の翌年でもあったので、被災して大変な思いをされていた方の話を伺う機会も多かったです。他にも、報道や駅伝実況やサッカーのリポートなど、アナウンサーとしてさまざまな仕事を経験させてもらいました。 元々しゃべりに自信があるわけではなかったため、オンエア前の下調べやイメージトレーニング、声だしなど、入念に準備したうえで臨んでいました。周りからは、「楽しそうにしゃべっているからそんなふうに見えない」と言ってもらえていましたが(笑)。本当にいろいろな方に支えられ、日々楽しく全力で仕事に取り組んでいました。

そんななか、退職を決断された理由を教えてください。
日々のオンエアに臨むうち、テレビ局のアナウンサーを続けるうえで、「付加価値となる自分の強みや、オリジナリティーを身につけたい」と思うようになりました。人生を長い目で見たときに、「どこかのタイミングで新たな挑戦をしてみなくては」と考え、新たな道を検討した結果、大好きな番組、会社を卒業してフリーアナウンサーになることを選びました。
パリで見つけたナレーションの仕事
退職後、どのような活動をしたのでしょうか。
実は、退社を決断した後、当時交際していた現在の夫のフランス・パリへの転勤が決まりました。日本に残って仕事をするか悩みましたが、たまたま足を運んだ「話し方講座」をきっかけにアナウンサーになるなど、これまで流れに身を任せることでうまくいくことが多かったんです(笑)。ですので、パリで夫と一緒に暮らすことにしました。2019年3月のことです。
パリで仕事はしていたのでしょうか。
語学学校に通いつつ、アナウンサーのスキルを生かせる仕事を、現地企業や日本人コミュニティーを対象にSNSなどを駆使して探しました。そのなかで、縁あって最初に依頼してもらったのが、世界遺産を訪れた日本人向けに提供される、日本語ガイド音声のナレーションの仕事でした。 ナレーターの仕事について調べてみると、さまざまな言語のナレーターと現地の関連業者をマッチングするネット上のプラットフォームが提供されているほどニーズがあることがわかりました。プラットフォームにボイスサンプルを登録すると、フランス国内のみならず、世界中から仕事の依頼をもらい、本腰を入れるために自宅で録音できる機材も準備しました。他にもイベントMCやコラム執筆に加え、フランス語上達のために、現地の飲食店でも働いていました。
帰国したのはいつですか。
2021年7月に夫の勤め先でもある仙台に戻りました。その年の11月に第1子を出産後、2022年の春から、フリーアナウンサーとしての仕事を受け始めました。古巣のテレビ局での仕事を皮切りに、ナレーションや司会などのテレビの仕事にYouTubeと、受けられるものはできる限り受けました。とにかくしゃべる仕事が楽しかったことに加え、日本を離れた時期があり、キャリアに穴があいているような気もしていて、それを埋めようと必死だった気もします。
特に力を入れた分野などはありましたか。
スポーツですね。局アナ時代、仙台という土地柄のおかげでスポーツに触れる機会が多く、地域全体でクラブやチームを応援するその温かい雰囲気もあり、スポーツの楽しさに目覚め夢中になりました。宮城テレビ放送に在籍した7年の間には、プロ野球チームの東北楽天ゴールデンイーグルスが初優勝し、特番を担当したり、コーナーの専任リポーターも務めたりしたほか、駅伝や高校サッカーも担当し、日々スポーツに感動と元気をもらっていました。
帰国後にフリーアナとして具体的にどのようにスポーツと関わったのでしょうか。
フリーになってからは、プロバスケットボールチーム「仙台89ERS」の本拠地のアリーナMCを担当させてもらいました。また、アメリカ・ロサンゼルスのサッカークラブ「ロサンゼルスFC」のスタジアムのナレーションを担当するなど、自分が力を入れていきたいと思っていたスポーツに関わる仕事が増えていきました。また、仕事を続けるなかで、スポーツ以外にもフィールドが広がっていき、多様な活動の場をもらえたと思います。
33歳で考えた「社員になる」選択
フリーの仕事が軌道に乗り始めるなかで、就職活動を始めたのはなぜだったのでしょうか。
アナウンサーの仕事を続けるなかで感じていた「自分ならではの強みやオリジナリティーが欲しい」という思いと、純粋に新しいことに挑戦してみたいと思ったことが大きいですね。 大学院への進学や資格取得も選択肢の一つでしたが、そのなかで浮かんできたのが、テレビ局とはまったく違う会社で「社員になる」というものでした。当時33歳だったのですが、これまでと違う働き方をするのに必要な柔軟さや体力が備わっている「ラストチャンス」と感じたのもあります。
会社選びの軸はありましたか。
「スポーツに関わる仕事」であることは、前提としたいなと思いました。また、最も重視したのは、アナウンサーやフランスでの経験という特殊なキャリアに価値や魅力を見いだしてもらえるかという点でした。
どのように会社探しを進めたのでしょうか。
転職サイトに登録して、人材紹介会社の担当者から紹介された求人から、興味のあるものを探しました。提示された求人の職種として多かったのは、広報や営業でしたが、どちらも自分のイメージに合いませんでした。結局、採用プロセスまで進みたいと思えたのはKPMGコンサルティング1社のみでした。

なぜ広報や営業にフィットを感じなかったのでしょうか。
ひとつは、広報や営業のように自社の特定の事業の価値を伝え続ける仕事より、客観的な視点を持って事業の価値を高める仕事がしてみたい気持ちがあったためです。加えて、一つの組織や業務にずっと携わるより、ひとつのテーマが終わったらまた別のテーマへ移ることのできるような接し方ができる業務のほうが、マスコミにいた自分には向いていると感じていたこともあります。 その点、コンサルタントは、まさに事業の価値に関わる仕事ですし、プロジェクトごとにインプット・アウトプットを繰り返して、また次のプロジェクトへ移るというイメージがあり、常に新しい世界で新しいことを学んでいきたいと思う自分の求める働き方に近いと感じていました。 KPMGコンサルティングの求人の職務内容も、ビジネスやSDGs(持続可能な開発目標)などの視点を考慮しながら、プロスポーツリーグを盛り上げることでしたので、これまでパワーをもらってきたスポーツ業界に恩返しをしたいという思いもあり、ぜひやってみたいと思いました。
最終面接で示された可能性
面接は何回ありましたか。
実質2回ですね。まず、スポーツイノベーションチームをリードするディレクターの方から、仕事内容の説明を受けつつ、これまでの経験を聞かれました。
印象はいかがでしたか。
コンサルタントというと、ロジカルで、淡々としているイメージがありましたが、スポーツへの情熱という熱い側面を感じられたのが、とても良かったです。また、自分のキャリアに対して興味を持ってくれたのも、転職の軸と合致していました。「24時間テレビ」で持ち時間を30秒余らせてしまったとき、共演者のお笑い芸人さんに話を振って乗り切ったエピソードを、興味深く聞いてもらえたのが、好印象でした(笑)。
最終面接はどのような感じでしたか。
スポーツイノベーションチームを含む「Social Value Creation」という社会的な価値を創出していく部署のトップであるパートナーとの面接でした。そこでは、志望動機として、「コンサルタントになること」と「スポーツに関わること」のどちらの比重が大きいのか、という点を聞かれたのをよく覚えています。 もちろんコンサルタントとしてのスキルは身につけたいが、スポーツに携わりたい気持ちが強いと伝えました。また、ロジカルシンキングや構造化思考、基本的なPCスキルなどを含めて、いわゆる30代のコンサルタントが普通に備えていることが多いであろうスキルについては、「自分に十分備わっているとは思えないのでこれから努力して身につけたい」と率直に伝えました。
反応はいかがでしたか。
コンサルタントという職種においても、「人によって強みは異なる。できる部分を生かしてほしい」という言葉に、安心した記憶があります。 また、もう一つ印象的だったのは、アナウンサー・ナレーターとしての能力についての意見でした。私としては、就職するからには声を使った仕事はいったんお休みしなくてはいけないのではと思っていたところ、「能力を生かす手もある。続ける選択肢もあるのでは」と示唆されました。
その後、局アナ時代の年収を上回る内容でオファーがでました。
他の会社をもう少し探してみようとは思いませんでしたか。
まったく思いませんでした。スポーツに関わる仕事ということもありましたが、やはり、面接を通じて自分のキャリアに価値を見いだしてくれて、大事に考えてもらった印象が大きかったです。2023年夏前に、現在のKPMGコンサルティングに入社しました。
2つの「話す」を1人でできるように
入ってみて、いかがですか。
現在は女子プロサッカーリーグである「WEリーグ」のコンサルティング業務に携わっています。リーグの課題やニーズととことん向き合い、チームのメンバーと徹底的に考え抜く。初めてで大変なことばかりですが、業務内容、スタンス、考え方やアウトプットの形、すべてがとても新鮮ですし、スポーツビジネスへの取り組みはずっと自分が挑戦したかった分野なのでやりがいを感じています。 率直にいって、実務に関してはまだわからないことだらけですが、入社直後の研修でコンサルタントとしての基礎を学ぶことができました。何より、上司や同僚に分からないことを率直に聞くことができるため、今の環境に感謝しています。
副業もしているのでしょうか。
はい。「MEP(Multi-Experience Program)制度」という一定の条件のもと兼業を可能とし、多面的な経験を得ることを支援してくれる制度を利用して、アナウンサー・ナレーターの仕事も副業として続けています。家族の都合で、2023年から拠点を東京に移しましたが、変わらず大好きなしゃべる仕事を続けられているのは、ありがたい限りです。

今後の目標を教えてください。
まずは一日も早く戦力になれるよう目の前の仕事を着実にこなしていくしかないと思っています。会議をファシリテーションしたり、構造化やロジカルシンキングをしたうえで発言したりと、これまでとは違う角度で自身の「話す」スキルを磨いています。 長期的な目標として考えているのは、コンサルタントとして担当した案件を、アナウンサーとしてのスキルも用いて発信できるようになりたいです。アナウンサーのしゃべり方とコンサルタントの話し方には、進め方やスタンスに違いがありますが、根本的な部分である「話して、相手の心を動かす」部分に共通点があるように感じています。2つの「話す」を1人でできるようになれば、求めてきた自分ならではの強み・オリジナリティーになると感じています。 また、スポーツをあらゆる側面からサポートできるスキルを身につけることも目標の一つです。コンサルタントとしての仕事も、しゃべる仕事も「一つも無駄な経験はない」と信じて夢を持って一歩ずつ前に進んでいければと思っています。 本記事についての簡単なアンケートにご協力をお願いします。 アンケートはこちら
文:福田 小石 写真:的野 弘路 掲載日:2023年11月8日